~Shades of Stars~

第3話『Reflection in the mirror』前編

あの日、全身を貫いた衝撃を、乙宗 梢はまだ忘れられずにいる。
梢が初めてスクールアイドルを見たのは、小学1年生の時だった。
それ以前のことを、梢はうまく思い出すことができない。大げさでもなんでもなく、梢にとっては、その日が新たな自分の生まれた日であった。
『ねえ、お母様!私、スクールアイドルになるわ!』
きらびやかなステージで踊り、歌う、9人の少女たち。ラブライブ!の大舞台。その姿を梢は何度も繰り返し、繰り返し、繰り返し再生し、夢中になった。
誰もが一度は夢見るお姫様や、テレビの中の魔法少女のように、梢はスクールアイドルに恋い焦がれ、しかし、その夢が覚めることはなかった。
華々しい残像を一途に追いかけて、いつしか自分も夢の舞台に立つのだと願い、梢は生きてきた。
音楽一家、乙宗家のひとり娘として、義務や責務を放棄してスクールアイドルを目指すことには、多くの障害があった。
何度も家族と衝突を繰り返し、それでも梢は夢を諦めることができなくて、最終的には伝統と名門の蓮ノ空女学院への入学を許された。
3年間。限りある時間の中で、夢を叶えるために。
そのために梢は、蓮ノ空へとやってきたのだ。
そして、今。
学友である綴理のファーストライブを見た梢の胸には、初めてのライブステージへの正体不明の不安、それと。
未来への期待と、情熱と、これまでにない高揚感が、渦巻いていた。
近江町市場でのライブから、1週間が経った。
梢がクラスメイトと一緒に、移動教室に向かう途中のことだ。
前から、華やかな一団がやってくる。
「えー、うれしいー。ぜったい見に来てよねー!」
その中に、思わず目を惹くような女の子がいるかと思えば……。
(……藤島さん)
何度見ても、見慣れない。夕霧綴理の魔性めいた美貌とも違って、藤島 慈は誰からも好感を抱かれるような、愛嬌にあふれた美少女だった。
彼女のいる場所は、いつだってセンターステージ。はっきり言って、自分とは住む世界が違う。今も賑やかな輪の中心で、友達に囲まれて笑っていた。
「うんっ。藤島さんのライブ、楽しみにしてるから!」
「スクールアイドル、がんばってね!」
「楽勝楽勝☆」
向こうもこちらに気づいたようだ。お互い目も合わせず、すれ違う。
(……まだ、体験入部のくせに)
内心毒づく。調子のいいことだ。
ただ……。最近では、それなりに練習にも身を入れているようだ。朝練もちゃんと参加している。いったいいつまで、言い張っているのか。往生際が悪い。さっさと入部を決めればいいのに……。
(……別に、入ってほしいわけでは、ないけれど)
まるで言い訳のように聞こえて、恥ずかしくなってきた。
友達が(私にも友達はいるのだ。当然だ)はしゃぎながら、声をかけてくる。
「そういえば乙宗さんも、ライブするんですよね?」
「え?ええ、月末に。まだぜんぜん、自信はありませんけれど……」
「きっと大丈夫ですよ、乙宗さんでしたら。私も、見に行きますね」
品のある笑顔で応援されて、梢は苦笑いする。
口では謙遜しながらも、本当はぜひ見に来てもらいたいと思っている。
なんといっても、スクールアイドルに憧れ続けた自分の、栄えあるデビューライブステージを作り上げなければならないのだから。
沙知
「ワンツー、ワンツー、はいくるっと回って、ワンツー、ポーズ!」
沙知の掛け声が、レッスン室に響く。
スクールアイドルクラブの唯一の2年生、大賀美沙知は、歌もダンスも達者な先輩だ。組んでもらった練習メニューには物足りなさを覚えることもあったが(そしてそれに異議を唱えることもたびたびあったが)、それでもおおむね指導者として申し分ないと感じている。
梢は背筋と指先を伸ばし、優雅にターンをすると、精一杯微笑んでみせる。鏡の中には、息を切らせてぎこちなく笑うスクールアイドル見習いの姿があった。
沙知
「はいおっけー!いいね、乙宗ちゃん、上達したねぃ」
「……そうですか?まだまだだと思いますけれど」
沙知はしょっちゅう安易に褒めてくれる。梢がこれまで師事した先生たちとは違って。
そういう方針なのはわかるが、梢が求めているのは改善案と反省点だ。
沙知
「うーん、自分に厳しい。たまには褒めてあげてもいいと思うよ? 特に、バレエの振り付けを取り込んだところなんて、あたしにはない発想だったからね」
「……伝統の曲の振り付けを勝手に変えてしまうなんて、本当にいいんでしょうか」
沙知
「いいよいいよ。あたしだって、めちゃめちゃ変えてるし!」
「……」
気楽に言う沙知を、じとー……と見つめる。彼女は梢の視線を大げさに「なーはっはっは」と笑い飛ばした。
ライブの開催が近づき、練習時間の大半はユニットでの特訓に充てられていた。
沙知
「よっしゃ、次はDOLLCHESTRA!夕霧ちゃん、来いっ」
綴理
「はい」
特筆すべきは、沙知が本当にひとりで3ユニットをこなしていることだ。
蓮ノ空に伝わる3ユニットは、曲調も雰囲気もなにもかもが違う。それなのに、踊る相手によってたちまち表情を変える沙知は、素人目から見ても、とんでもないことをやっていると思う。
水を持ってレッスン室の端にやってくる。足を崩して座る慈の隣に、腰を下ろす。練習風景を眺めていた慈が、軽くつぶやく。
「なんかさー。沙知先輩って……ひょっとして、すごい?」
「……私は、そう思うけれど」
「うーん。だよねえ。もともと曲を覚えてたって言っても、別に私たちの3倍練習してるってわけじゃないのに」
そもそも、あの綴理のダンスについていけることが、なによりも目を見張る。バレエの経験があっても、自分はまだあそこまで踊れない。
「ひょっとしてあの人って、代々伝わる一子相伝のダンス術の使い手とかだったりする?」
「言っている意味が、まるでわからないのだけれど……」
「あるじゃん、両親から才能を受け継ぐとか、コピー能力とか。えっ、乙宗ちゃんってまさか、漫画とか読まない人?」
押し黙る。自分の趣味が同年代とズレていることは、わかっている。
「読まないわけではないわ」
見たことはある。例えば、漫画で覚えるモーツァルトとか……。
「そもそも、沙知先輩は、蓮ノ空の理事長のお孫さんよ」
「えっ!?そうなの!?」
慈が目を剥く。どうやら本当に知らなかったようだ。
大賀美理事長の名前は、蓮ノ空を受験する際のパンフレットにも書いてあるはずだが……どうせ読んでいないのだろう。いい加減な人だ。
「はー。さすが蓮ノ空。右見ても左見てもお嬢様じゃん。あれでしょ。乙宗ちゃんとか、通学もずっとリムジンとかだったんでしょ」
「普通にバスよ」
「自家用の……!?」
「そんなわけないでしょう……」
呆れると、慈は「あはは」と声をあげて笑った。慈はとにかくよく笑う。普段はそれで別に構わないが、練習中は緊張感がないなと思う。
「さってと、そんじゃ私はそろそろ帰るかな」
「次はあなたの、みらくらぱーく!の練習じゃない」
「用事があんの。私のやってた番組の、テレビ放送があってね」
あまりにもさらっと言うものだから、慈が本物のタレントであると、ときどき忘れてしまいそうになる。
「そうなの……?」
「あ、でも私はレギュラー降板したから、出ないんだけどね」
「そう……。スタッフの方々と一緒に作っていた番組だから、愛着があるのね」
梢も、お世話になっている音楽の先生が公演を開く際は、なるべく足を運ぶようにしている。それと似たようなことか、と思ったのだが。
「いや、ぜんぜん?」
慈はきょとんとした後、下世話な笑みを浮かべた。
「私がいなくなった後の番組が、どれだけ盛り下がってるのか、見て楽しんでやろうと思って」
「性格悪いわね、あなた……」
「そーゆーわけで。じゃーねー」
立ち上がって、さっさとレッスン室を出ていってしまう。
まったく……。最近は真面目に練習していると思いきや、すぐにこれだ。
まるで、自由気ままな猫のよう。梢は大の猫好きだが、一緒にラブライブ!優勝を目指すチームメンバーが気まぐれでは困る。小さくため息をつく。
まあ、いいか。ユニット練習の時間が減って苦労するのは、慈自身だ。自分がなにかを口出す必要はない。
彼女はずっとタレントとして活動していたのだから、自分のことぐらい自分で面倒を見られるだろう。
(私だって、人のことに構っている余裕は、ないもの)
今はとにかく、己のパフォーマンスを研ぎ澄ますための時間が必要だ。できることはそう多くないが、だからこそひとつも手を抜くわけにはいかない。
沙知
「よっしゃ次は藤島ちゃん……、あれ?どこいった?トイレ?」
「帰りました」
沙知
「ん、そっかそっか」
沙知はあまり頓着なさそうにうなずいた。それが先輩として正しい態度か?と疑念が生じる。そんな梢の不満を見抜いたように、沙知は眉を下げて笑う。
沙知
「まあまあ。スクールアイドルにかける気持ちは、それぞれだよ、乙宗ちゃん」
「それはそうかもしれませんが、藤島さんはもう少し真面目にしてもらわないと困ります」
沙知
「困る?どうして乙宗ちゃんが困るんだぃ? 言っちゃあなんだけど、その分あたしとユニット練習をする時間が増えるじゃないか」
「それは……」
切り返されて、思わず言葉に詰まった。確かに、梢は困らない。なのになぜ、困るなどという言葉が口から出てしまったのか。
仕方なく、どうにかひねり出す。
「ああいう方がチームにいると、全体のモチベーションの低下に繫がります」
沙知
「そうかぃ?夕霧ちゃんは?」
踊り終えて水を飲んでいた綴理が、首を傾げる。
綴理
「?ふじしまさんがいて、ボクは楽しいよ」
沙知
「だってさ」
さらに言えば、梢だって別に、誰がいようが誰がいまいが、モチベは下がらない。単なる一般論を唱えてしまっただけの自分を、恥じる。
「……す、ステージの完成度が低かったら、一緒に踊る沙知先輩にも、迷惑がかかるじゃないですか」
沙知
「なるほど、なるほどねぃ」
沙知がニヤリと笑う。意地の悪そうな笑みだと思った。
「……なんですか」
沙知
「いいや別に?」
「気になります」
沙知
「きみは、グイグイ来るねぇ……」
20センチ近く差のある沙知を上から見下ろすと、圧を感じたように沙知が苦笑いを浮かべる。
沙知
「乙宗ちゃんは、藤島ちゃんのことをもう仲間だと思っているんだねぃ」
「……は?」
顎に手を当ててなにやらひとりで勝手に納得する沙知に、梢は断固、目を吊り上げる。
「どうしてそうなるんですか」
沙知
「身内だから、心配になっているんだろう?」
「違います!」
梢はムキになって否定した。
これが夕霧綴理なら、練習をサボったところでなにも言わないだろう。彼女は自分よりよっぽどできている。だが、慈はまだまだ練習が必要だ。必要なことから目をそらす人間が、梢はいちばん嫌いだ。
なのだが、最近は藤島 慈もちゃんと朝練に来ている。ときには梢より早いこともある。綴理のステージを見て影響を受けた人間は、梢だけではなかった。慈だって、やることをやっていないわけではないのだ。
だとしたら、梢は慈のなにが気に入らないのか。
それは……。
実は、梢自身にも、よくわからなかった。
しいて言うのなら、姿勢、態度、生き様、信念。そんなあやふやで、言葉にするのが難しい領域で、梢は慈のことが苦手だった。
と、そこまで至って、今は練習時間だと思い直す。
「……すみません。貴重な沙知先輩のお時間を削るようなことではありませんでしたね」
沙知
「あたしは青少年のお悩み相談室を開くのは、けっこう好きなんだけど。まあ、それも強制することじゃないね。練習しよっか、乙宗ちゃん」
「はい、よろしくお願いいたします」
無様な姿を見せるわけにはいかない。沙知にも綴理にも、来てくれるみんなにも。なにより、あのなんでも涼しい顔でこなしていく慈には、ぜったいに。
そうだ。
これが夢のラブライブ!への、第一歩なのだから。
だが。
翌日になっても、その翌々日になっても、慈は練習に現れなかった。
階段の踊り場で、友達に囲まれながら笑っている、可憐な女の子。
「あはは。めっちゃいいじゃんそれ。えー、きょう遊びに行っちゃう?」
長い髪のタレント。藤島 慈の前に、こわばった表情の梢が歩み出る。
「ん?あれ、乙宗ちゃん?」
「ごめんなさい。ちょっと藤島さんを、借りるわね」
「ちょ、ちょっと!?」
慈の手を掴んで、輪から引っ張り出す。周りの少女たちは、呆気に取られていた。
人気のない廊下にやってきた辺りで、慈が手を振りほどいてきた。
「な、なんなの!?強引すぎるんだよ!」
「あなた。どうして練習に来ないの?」
「……は? それだけ?」
「だけ、って……!」
慈の言い草に、唖然とする。なんのために、自分が慈を探し歩いてお昼休みを無駄にしたのか。
「病欠でもなんでもないのに、2日も練習を休むなんて、異常事態でしょう!」
それは梢の常識から考えると、ありえないことだった。
なのに慈は、ドン引きした顔で。
「ええー……?なんとなく気が乗らない日だってあるじゃん……」
「ないわ。もし仮にあったとしても、それがやらない理由にはならないわ」
「乙宗ちゃんの人生、厳しすぎでしょ……」
かわいそうなものを見るような目を向けられた。意味がわからない。
そこで慈は肩をすくめた。
「まあ、ちょーどいい機会だし、言っとくね」
決して悪びれず、明日の天気を話すような気安さで、慈は言い放ってきた。
「私、スクールアイドルクラブ、辞めるね。意味ないから」
「…………はあ!?」
「どういうことよ!?」
「……だからって、部屋まで押しかけてくるかね、乙宗ちゃん」
その日の夜。寮の自室のドアにもたれかかって、慈は呆れた顔で再びドン引きしていた。
知ったこっちゃない。逃げたままろくに理由を話さなかった慈がすべて悪い。
「なに?沙知先輩から聞いてこいって言われたの?」
「こんなの、話せるわけないでしょう、沙知先輩に……!」
話せば、クラブ全体の問題になってしまう。
どんな気まぐれを起こしたのかわからないが、慈は本当に部活動を辞める気なのかどうか。まずはその確認が必要だと思ったのだ。
「つまり、乙宗ちゃんの意思ってこと?」
「……それが、なにか?」
なにか恥ずかしいことを聞き出されているような気がして、梢の勢いが少し落ちる。慈は少し考えた後、梢を部屋に招き入れた。
「まあ、廊下で騒がれても近所迷惑か……。入っていいよ」
「……お邪魔するわ」
慈の部屋は、まさしく年頃の女の子という雰囲気だった。
明るい壁紙に、かわいい柄のカーテン。大きな姿見があり、ハンガーラックにはたくさんの洋服がかかっている。アロマを焚いているのか、うっすらとジャスミンのいい香りがした。
「座ったら?」
「別に、ここでいいわ」
ドア前に立ったまま、梢は慈を見据える。
「あ、そ」
くるりと椅子を回して、慈が席に座る。脚を組む彼女は、「で?」と梢を促した。
「……なにが?」
「私が辞めようが乙宗ちゃんには関係ないじゃん。同じユニットでもないんだし。なんでわざわざ部屋まで来たの?」
沙知の問いと似たようなことを聞かれて、梢は思わず目を泳がせる。
だが、大丈夫だ。今回はちゃんと、用意してきた。
「もうライブステージの準備は、進んでいるのよ。ここで投げ出されても迷惑だわ。せっかく沙知先輩が、あんなに稽古をつけてくれているのに。……込み入った事情があるなら、ともかく」
組んだ脚に頬杖をついて、慈が半眼で梢を見上げてくる。
「ふーん」
「な、なに?」
梢はあからさまに胸を張って、慈を見返す。
「……ま、いいや。なんか乙宗ちゃんって執念深そうだし」
「そんなことないわよ」
「つまり事情があれば納得するってわけ?」
それは意外な言葉だった。
「……あるの?」
思わず、目を丸くして聞き返す。
慈はしばらく言いたくなさそうに押し黙っていたが、そのままでは梢が一向に立ち去らないであろうことを理解したのか、渋々と口を開いた。
「こないだ私さ、先に帰ったでしょ」
「……ええ。あなたの出ていたテレビ番組を見るって言って」
梢は眉間にシワを寄せた。
慈は事情を語ろうとしている。それはつまり、彼女は気まぐれでもなんでもなく、理由があってスクールアイドルを辞める決断をしたということだ。
ならば、彼女はもう戻ってこないつもりなのではないかと、不安になる。……不安? なぜ自分がそんな感情を抱いているのだろう。
「うん、見たんだよね、番組。SNSでずっとエゴサしながらさ。新しいタレントの子もがんばってたけど、ぜんぜん不慣れで。あーこりゃ叩かれるだろうなーって思ってたんだけど」
「……ええ」
その言葉は半分ぐらいしか理解できなかったが、とにかく、人からの評価を確認したという話だろう。
慈は淡々と続ける。
「別に、そういうこともなくて。みんな、新しい子がいかにかわいいかって話題で、盛り上がってたんだよね」
「……それは?」
後任のタレントが視聴者に歓迎されているのなら、別に悪くないのではと、梢が聞き返す。
しかし、慈は一言一言、噛み潰すように言った。
「誰も、私の話を、してなかったんだよ」
慈の声が、徐々にやさぐれてゆく。
「いなくなった私のことなんて、誰も気にしてなかった。みんな、新しい子に夢中で、すぐ受け入れてた」
「……」
厳しい世界だ。たぶん梢が想像するよりも、ずっと。
それでふてくされて、すべてのやる気を失ってしまったのだろうと、梢は受け取った。
しかし、梢が想像するよりもはるかに、慈はストイックだった。
「それもこれもすべて、私の努力が足りなかったから」
「……え?」
「私がタレントとして発展途上で、世界中を夢中にできなかったから。だから、みんなすぐに、私のことを忘れちゃったんだよ。だったら、スクールアイドルなんて寄り道してる場合じゃない。わかったんだ。一刻も早く、タレントに戻らなきゃいけないって」
梢は驚いた。誰のせいにするわけでもなく、すぐに自分を忘れた視聴者に怒りをぶつけるでもなく、すべて己のせいだと言い切った慈に。
まるで野良猫のようだった彼女の異なる一面に、思わず言葉を失う。
「……でも、タレントに戻る、って」
業界のことはよくわからないが、蓮ノ空にいる以上、それは難しいことなのではないだろうか。
痛いところを突かれたように、慈が目をそらす。
「まあ、簡単じゃないけどさ。でもとりあえず、今の事務所には『辞めます』って言って、学生でも入れてもらえる事務所を新しく探すよ。履歴書、いっぱい書かなきゃね」
「学校側が認めなければ、どうするの?」
「……そのときは、そのときでしょ」
それはすなわち、退学も辞さないという意思表示である。
無茶苦茶だ。
梢の胸が波打つ。
「どうして、そこまで」
慈が据わった目を向けてくる。
「あんただって、音楽一家の生まれなのに蓮ノ空に来てスクールアイドルを始めたのは、夢のためなんでしょ。だったら、わかるでしょ」
その瞬間だけ、慈はきっと、梢を同種とみなしてくれた。
慈が胸に手を当てる。
「タレントじゃなきゃいけない理由なんて、ない。別に、なんでもよかったんだ。だけど、私の夢は、世界中を夢中にすること。そのためには、足踏みしてる時間なんて、ないんだよ」
「……」
知らなかった。慈がそれだけ強い思いを胸に抱えていたなんて。梢が今まで見ていた慈の姿は、あくまでも彼女が学校生活を送るための衣装でしかなかったのだ。
いや。時々その片鱗が見え隠れすることは、あった。
一緒に綴理のファーストライブを見たときの、慈の表情は……自分の夢に歩んでいこうとする綴理へと、羨望のまなざしを向けていた。
もし慈に、学校生活を送ることよりも優先すべき夢があるのなら、梢に慈を止めることはできない。夢に向かって走り続ける彼女は、自分と『同じ』なのだから。
だが──。
「そもそもタレントですら誰も覚えてないんだから、スクールアイドルなんてやったって時間の無駄。誰も覚えてくれないし、私を応援してくれる人も増えないってわけ。キャリアに関係ないことやってても、意味ないからね」
吐き捨てるようなその言葉が、梢の胸に突き刺さった。
「とゆーわけで、お話おしまい。乙宗ちゃんたちは、がんばってね。ライブは見に行くからさー」
「……」
軽い言葉で話を締めくくり、立ち上がる慈に、梢はその場を動かなかった。
「ちょっと、乙宗ちゃん?もう、終わったんだけど」
早く出てってよ、と言いたげな慈に、梢はうつむいたまま口を開く。
「……あなたがスクールアイドルを辞めようとする理由は、わかったわ。それがあなたの決めたことなら、私はなにも言えない」
──同じ、夢を追いかける者として。
その言葉を飲み込んだまま、梢は慈を見つめる。
「けれど、ひとつだけ。あなたに言いたいことがあるわ」
「言いたいことがないのかあるのか、どっちなの……」
「スクールアイドルは、あなたが思っているような軽いものじゃないわ」
慈が眉を動かした。
「たった一度のライブ、たった一曲のステージで、その後の人生を変えてしまうような出会いもある。それが、スクールアイドルの力よ」
「……はあ?」
なにを言っているんだ、という目で見られる。それでも構わない。梢は最後まで言い切った。
「『世界中を夢中に』することが、あなたの夢なら、スクールアイドルはそれを叶えられる。一生この胸に残り続ける、永遠に忘れられない出会いが、あるのよ」
色をなくした慈の視線が、梢を睨みつける。
「人の夢の話に、土足で踏み込んでくれるじゃん」
底冷えする声。少しでも気を抜けば、切り刻まれてしまいそうだ。梢は慈を恐ろしいと思った。
それでも、震える拳を隠しながら、告げる。
譲れないものがある。先に仕掛けてきたのは、向こうなのだ。
「そうよ。本気で挑戦しなければ、わからないでしょうけれど」
「いや、あのさ」
慈は眉をひそめた。
「つまりそれって、私がタレントを本気でやってなかったって言ってるわけ?」
「自分の胸に手を当てて、聞いてみたらどう?」
ドストレートに、慈が感情をあらわにする。
「むかつく」
人を傷つけることをまるでいとわない目だ。慈はいつでも己の底を見せないように、立ち回っている。そんな彼女が今だけは本気で、怒りを燃やしていた。
だが、それが発言を撤回する理由には、なりえなかった。
「あんたは、私がタレントでできなかったことが、スクールアイドルならできるって言いたいの?」
「できるわ。スクールアイドルなら」
ただそれだけは確かなこととして、梢は断言した。
なぜなら、梢は誰よりも、スクールアイドルの価値を信じているから。
やがて、静寂を打ち破るように、慈が肩をすくめた。
「……確かにね。一度始めた以上、今月末のライブは出なきゃ無責任かもね。いいよ。そこまで言うなら、やってみなよ」
「……」
慈が挑発的に告げてくる。
「デビューライブで、あんたが私を夢中にさせてみなよ。一生忘れられないライブを、やってみなさいよ。それができたら、私もタレントを目指すのはいったん諦める。信じて、スクールアイドルを続けてあげるよ」
まるで宣戦布告のような声に、梢が眉根を寄せる。
「……それは」
「わかってるよ。別にあんたは私を引き留めに来たわけじゃないし、スクールアイドルクラブに戻ってほしいわけでもない。そもそもあんたは私のことが嫌いだし」
「……」
「嫌なやつがいなくなって、せいせいするでしょ?けどね、楽になんてしてあげないよ。これは、あんたが売ってきたケンカだから」
慈が、花を手折るような笑みを浮かべる。
「断ってもいいよ。ごめんなさい。私にはムリです、って。スクールアイドルなんて大したもんじゃないって、言いなよ。許してあげるから」
「……っ」
そこまで言われて、断れるはずがない。
梢は奥歯を噛み締めて、言った。
「いいわよ。あなたに、スクールアイドルのすばらしさを、見せてあげるわ」
再び、慈が笑った。
厭な笑顔だと思った。
沙知
「それじゃあ、次は藤島ちゃん!」
「はーい」
2日間のサボりの事実もなかったかのように、慈は練習に復帰してきた。
沙知に『ごめんなさーい☆』と謝罪し、綴理にも『またよろしくね☆』と愛嬌を振りまき、気まずさの欠片も残さず、なにもかもが元通り。
中学時代、愛想だけで教師に気に入られていた生徒を思い出す。ただ、羨ましいとはまったく思わなかったが。
綴理
「元気になって、よかったね。ふじしまさん」
「……そうね」
綴理が、頬を緩める。
「……そうね」
自分の知らない間に綴理と慈は、ずいぶんと距離を縮めたようだ。部活にも、ふたりセットでやってくる姿も、よく見るようになった。
別になんとも思わない。スクールアイドルクラブに入ったのは、ラブライブ!で優勝するためだ。
そのための努力は惜しまないが、それ以外の手間は無駄なこと。
極めるということは、なにかを削ぎ落とすということ。たくさんの習い事を経験してきた梢は、夢と心中する覚悟をもったたくさんの少女たちを見た。
だから自分は、音楽の道を極めることができなかった。
自分にとっての夢は、ラブライブ!優勝なのだから。
そう。だとすれば、たったひとりの学友すら夢中にできないようでは、この先はない。
隣で体育座りをしている綴理に、問う。
「夕霧さん。あなたの目から見て、私に足りないところは、なにかしら」
綴理
「足りないところ……?」
「ええ。歌でもダンスでも、パフォーマンスに関することなら、なんでも構わないわ」
夕霧綴理は間違いなく、削ぎ落としてきた側の人間だ。
ダンスの天才。表現力の申し子。ひとたびステージに立てば、とてつもない引力を発する彼女に、梢は現時点、あまりにも後れを取っている。
思い知らされた。結局、自分は今までずっと、中途半端だったのだ。
乙宗家の娘として恥じぬよう生きてきた15年は、しかし、今となっては多くの無駄で作られていた。夢に向かうと、誓ったはずなのに。
慈に言った言葉は、すべてそのまま己に降りかかる。それが梢はなによりも、悔しかった。
綴理
「ボクは……」
綴理が口を開きかけて、また閉じる。自分よりレベルの低い相手に、はっきりとその事実を突き付けてアドバイスをするのは、難しいのかもしれない。
「なんでもいいわ。言って頂戴」
それでも真剣に訴えると、綴理はさらに迷った後、ようやく言葉を発した。
しかしそれは。
綴理
「おとむねさんは、スクールアイドルだと、思うよ」
梢の望む答えでは、なかった。
(そう……。まだそのレベルにすら、達していないのね、私は)
奥歯を噛み締める。
通しで踊り終えた慈が、戻ってくる。
「ふー、しんどー。はーい、次は乙宗ちゃんの番だよー」
「ええ」
立ち上がる。後ろから「あ」という声がした。
振り返ると、呼び止めてきたはずの綴理が、視線をそらす。
「……なにかしら?」
綴理は決したかのように、目をそらしたまま、口を開いた。
綴理
「……。おとむねさんは、きれい、だよ」
「……」
今求めているのは、そんな気休めではない。もっと直接的な、成長するための技術だ。
「……ありがとう」
口先だけの礼を告げ、梢は沙知の元へ向かう。今は一分一秒でも多く、練習をしなければならない。でなければ、藤島 慈にスクールアイドルという光を誤解されたままになる。
それだけは絶対に、嫌だから。
「え、なに綴理ちゃん、乙宗ちゃんにいじめられた~?」
後ろから、軽薄な声がする。乙宗 梢は目をつむり、自分の世界に没頭することにした。
練習メニューを変えることにした。
朝昼晩に行う筋力トレーニングは回数を減らし、代わりにパフォーマンスの練習にあてる時間を大幅に増やした。
朝、授業が始まる前も、昼休みも、練習が終わった後も、休日に練習のない日も、借りられる日はレッスンルームを借り、そうではない日は屋上でひとり、自分のダンスを磨き上げてゆく。
晴れの日も、曇りの日も、たとえ雨の日でも。
この日は、ぽつぽつと雨が降っていた。
おかげで、レッスンルームの予約は一杯。仕方なく、梢は屋上庭園でダンスの練習を始める。スマホから曲を流し、体を動かす。
汗と湿気で、トレーニングウェアの中が気持ち悪い。雨で前髪が張り付くのが鬱陶しい。それでも、決して集中力を切らさないように、ステップを踏んだ。
「あのさあ」
屋上のドアに、傘を差した少女が立っていた。
藤島 慈だ。彼女は憮然とした顔で、こちらを半眼で見つめている。
「当てつけかなんか知らないけどさ。やめてくんないかな。風邪引いて、勝負そのものをうやむやにでもするつもり?」
ちょうど音楽が終わった。梢は不愛想に慈を見返す。
「……相変わらず、嫌なことを言うわね。大丈夫よ。体調管理は、しっかりしているわ」
「そうは見えないんだけど?」
「やわな鍛え方はしていないもの。私は、大丈夫」
「……大丈夫、ねえ」
慈がやってきて、梢に傘を差す。
「あんた、周りの心配をぜんぶ、その『大丈夫』って言葉で、砂かけてきたんでしょ」
眉をひそめ、聞き返す。
「……どういう意味かしら」
「わかんないなら、いいや」
慈の言葉の意味は、本当に不可解だった。ただ、きっと彼女は自分より視野が広く、多くのものが見えているのだろう。
駄々をこねる幼子のワガママを咎められているようで、気分が悪い。
「誰もあなたに心配してほしいなんて、言っていないわ」
「かわいくないやつ」
「スクールアイドルを見くびっている誰かさんに、思い知らせてやらないといけないのよ。練習の邪魔をしに来たのなら、回れ右してほしいのだけれど」
慈を押しのけて、にわか雨の下に出ようとしたそのとき。
「あんた、なんでそんなにがんばるの?」
梢は足を止める。質問の意図が、わからなかった。
「今月末にライブステージが開かれるから、だけれど」
「私のため?」
「バカを言わないで」
一蹴する。たとえ慈の挑発がなくたって、梢は同じことをしていた。
「『ラブライブ!優勝』ってやつのため?」
半分自分が濡れながら傘を差し出してくる慈に、梢はなんと答えるべきか、悩む。
だが結局、不器用な梢は、正直に答える以外の選択肢をもたなかった。
「そうよ。それが私の、夢だから」
しとしとと、雨の中、梢は語り始めた。
「私には、憧れたグループがいるの。彼女たちを初めて知ったのは、小学生にあがってすぐの頃。スクールアイドルの最高峰、ラブライブ!の決勝大会の舞台で、それはもう、輝いて見えたわ。その輝きに魅せられて、私はここにいるの」
今でも、何度でも、思い出せる。
耳を澄ませば、いつだって音楽が頭の中に響く。
「私はそれからずっと、夢を追いかけてきた。石川県でもっとも実績のある蓮ノ空女学院に進学したのだって、ラブライブ!のため。3年間のうちに、私は必ず夢を掴むわ」
「……スクールアイドルに出会って運命が変わったって、あれ、あんたのことだったんだ」
「そうよ」
梢は目をそらす。子どもっぽいとバカにされるだろうか。くだらないと笑われてしまうだろうか。
慈は、なにも言わなかった。
「……そ」
急に、梢の視界が塞がれた。
驚く。さらに、乱暴に頭になにかを押し付けられた。
「ちょっと!」
手を払いのけると、かぶせられたのはタオルだとわかった。目を白黒させながら、問い返す。
「なんなの!?」
「16時から18時まで、私の名前でレッスンルームに予約入れてるから」
「……は?」
「天気予報ぐらい見なよ。ばーか」
慈のタオルを頭に引っかけたまま、さらに傘を押し付けられた。意味がわからず、慈を見返す。
「……なんなの?」
「風邪引かれて『あれはわたくしの実力じゃありませんでしたわー』とか言い訳されても、うざいから」
「そんなこと……!」
慈は降り続く雨の中に出て、振り返ってきた。
「そんなにがんばっても、誰の記憶にも残らず、誰のトクベツにもなれないかもしれないんだよ。それでも、がんばるの?」
後ろに手を組んで、前かがみになった慈が問いかけてくる。その顔は、笑っていなかった。妙に切実な響きがあった。
梢は息を呑んだ。
頭にかかったタオルを掴んで、傘を突き返し、うなずく。
「そうよ」
「……なんで?」
ためらいながら。
「誰かのトクベツになれなくても」
まっすぐに、告げる。
「目指して努力を続ければ、いつかきっと、自分に誇れる私には、なれると思うから」
あの日見た、光と同じように。
だから、今は他のことなど、なにも目に入らない。
スクールアイドルに出会い、スクールアイドルをやるために生きて、そして今、ようやくスクールアイドルになれたのだ。
立ち止まる理由など、どこにもなかった。
次のデビューライブが、夢への第一歩なのだから。
傘を受け取った慈が、うつむく。
「そっか」
それきり、慈は身を翻し、歩き去ってゆく。
「楽しみにしてるから、月末のライブ」
「…………」
その背を見送り、梢は握ったままのタオルを見下ろす。
「……なんなのよ、本当に」
慈の真意は、さっぱりわからない。あんな人、今まで自分の周りにはひとりもいなかった。
それでも、梢の胸に落ちるものがあった。口に出してみて、初めてわかった。
「私は……諦めたくないんだわ」
どんな結果に終わったとしても、最初から諦めることなど、許されない。
幼き日の自分に、背を向けたくは、ないから。