第5話『桂城 泉』

ABYSS

惨めで、つまらない話をしよう。
小学五年生の夏。当時の私。桂城 泉は、特別でもなんでもない。どこにでもいるような、ただの子どもだった。
過去をもたず、まだ未来も知らず。今だけを見て、与えられた生を謳歌していた。
この先に待つ運命を、知る由もなく……。
女優だった母親の縁で、私はとある劇団に所属することになる。
そこで、ひとりの少女と出会った。
少女と言っても、彼女は当時中学二年生。私の、三つ上の先輩だ。劇団の中心人物だった彼女は、誰にでも人当たりが良く、私ともすぐに、仲良くなった。
私にはどうやら、演劇の才能があったらしい。すぐに先輩に、気に入られてしまった。
先輩
「キミと一緒なら天下を取れるよ! わたしは! 一緒に天下を目指そうじゃないか!」
「ははは、なんだよそれ。」
あれよあれよという間に、私は演劇の世界に引きずり込まれていった。
楽しかったんだ。
先輩
「泉ちゃん! きょうも遅くまで残ってくれて、ありがとうね!」
「初舞台が、もう来週だからさ。それに……。」
「……遅くまで練習しているのは、あなたも一緒に残っているからだよ。」
先輩
「なんてかわいい後輩……!いや! わたしのベストパートナー!」
「よくそんな台詞を、臆面なく言えるね、あなたは!」
「あはははは。」
稽古を重ねて、そして。
先輩
「初めての舞台は、大成功! さっすが、わたしのベストパートナー! よっし、目指すは──!」
「目指すは?」
そこで聞いたのは、演劇をしていれば誰もが憧れる賞。どうやら彼女は、本気のようだ。
彼女は何度も繰り返し、『自分たちなら掴める』と言っていた。
「うん……うん、わかった! それが『私たち』の……新しい夢だね!」
いつの間にか私たちは、同じ夢を見るようになった。
夢中になって、夢を追いかけた。
一年が経ち、二年が経ち、そして──。
先輩
「やったよ、泉ちゃん!わたしたち……やったんだ!」
先輩
「夢が──叶ったんだよ!!」
「ああ……。私たちで掴んだ、夢だ!」
私と先輩は、頂点に、たどり着いた。
本当に……楽しかった。
演劇は私のすべてで、私は生涯を捧げるに足る生きがいを見つけたのだと、思えた!
こんなにも楽しい日々が、ずっと続くのだと……。
そう、思っていたのに。
それは……大きな誤りだった。
「──!? 先輩!?」
ある日、稽古の最中、私の目の前で、先輩が倒れた。
先輩は寝不足だと言い張っていた。だが、私はずっと気づいていながら、見ないフリを続けていたんだ。
稽古の時間、先輩が不自然にその場を離れていったことも。昼食後、面倒だと笑いながらも、明らかに多い量の薬を飲み続けていたことも。
気づいていたのに……この“今”が、楽しかったから……。
運命はただ無情に、私たちに刃を突きつけた。
先輩は、病に侵されていた。しっかりと入院をすれば良くなるはずの病気を、先輩は先延ばしにし続けていたのだ。
私が共に……いたからだ。
先輩
「わたしね、思うんだ。この広い宇宙の中で、泉ちゃんと巡り会えたのって、奇跡なんじゃないか、って。」
先輩
「泉ちゃんとふたりなら、どこまでもいける気がするの。一緒に、夢を掴もうね。」
先輩
「ぜったいに負けないからね! ベストパートナー!」
先輩は語った。『次の公演に、命を懸けているから』と。
……私にはそれが、到底冗談のようには聞こえなかった。
命の最後の炎を燃やし尽くすように、先輩の芝居は苛烈を極め続けた。
毎秒ごとに猛り、盛る滅びの炎を。看過など、できなかった。
私は何度も先輩と話し合った。
話し合いなどという言葉では、生ぬるい。それは、互いの主張を折る戦いだった。
「病気を治して、また帰ってくればいい!」
先輩
「何年かかるかわかんないんだよ! わたしは、夢を諦めたくない!」
先輩
「泉ちゃん、お願い。」
先輩
「わたしと一緒と行こう。夢の先へ──!」
「っ!」
それでも彼女は、止まらなかった。誰にも彼女を止めることなど、できなかった。私以外の、誰にも。
だから私は決断したんだ。
命よりも価値のあるものなどないと──そう信じて。
先輩
「泉ちゃん、どうして……。」
「私はもう、あなたと共には、歩めない。」
「さようなら。」
別れ際、涙が頬を叩いた。私にはそんな資格なんて、ないのに……!
そして私は、演劇を辞めた。
私と共に在る限り、彼女は永遠に無茶をする。私たちはきっと、相性が良すぎたから。
それしか方法は、なかったんだ!
……ずっと、一緒にいられたら、どんなに良かったことだろう。
地獄の炎に焼かれながら、ふたり手を繋ぎ、この身が灰になるまで離れないと誓い合えば……! あるいは、幸せな終わりを迎えられたのだとしても……。
それでも私は、彼女に、生きていてほしかったんだ。
そして私たちは、半身を失った。
それから……。私の願い通り、彼女は治療に専念したと聞いた。
体を治し、そしてまたどこかで、演劇を続けるのだろう。
私はもう二度と、彼女に会うつもりは、ない。
……ただ、去り際の彼女の言葉が。
先輩
「泉ちゃん!」
先輩
「泉ちゃん、ごめんね……。」
先輩
「あなたも、きっと……自分の夢を! 自分だけの夢を、見つけてね!」
「……っ。」
その言葉は。
ずっと、ずっと、この胸を叩き……。
いつまでも私の中に、燃え残り続けている──。
灰。
降り積もる、一面の灰。
先輩と別れ、演劇を辞めた私を待っていたのは、ありきたりでつまらない色あせた現実──などではなく。
魂の喪失。
目に映るすべてから、色の消え失せた世界だった。
頭が痛む。視界が歪む。
なんだ? これは。
一週間。うまく眠れない。
一か月。他人の顔の見分けがつかなくなった。
一年。もう私は、元に戻らないのか?
無窮。果てしなく長い一秒。目に入るすべてが灰に、灰に覆われている。
どうして私は、こんなことに……!? 誰も教えてはくれない。誰も、誰も!
私が失ったのは、夢だけじゃなかったのか!? 誰でもいい! 誰か!
どうやら私は、壊れてしまったようだ。
ホラーパートここまで。
とてもひとりでは、耐えられない。
悪魔が、ささやく。
もしあのまま彼女の手を離さずにいたら。向かう先が地獄だとしても、私の世界はまだ、色づいていたのだろうか。
最期の瞬間まで、笑っていられたのだろうか。
かけがえのない“今”を、失わずにいられたのだろうか。
そんなはずがないと、どんなに己を戒めようとも。悪魔のささやく夜は、終わらない。
私は彼女の、先輩の命を救ったつもりだったけれど。その代償はあまりにも大きかった。
私は……。桂城 泉は夢を失い、ただの灰殻となった。
……だが。
ある日、学校からの帰り道。灰色だった世界に、再び色が浮かび上がった!
それは、公園にいたひとりの少女。先輩かと見間違えた彼女は、しかし実際見ると、似ても似つかない少女だった。
私は思わず、声をかけていた。
「……あなたは? ここでなにを?」
そう尋ねる私に、彼女は言った。
『──夢を叶えたくて』
その瞬間、私の心が震えた!
世界が、色を取り戻してゆく!
反射的に、私は手を差し出していた。
「良かったら、私が手を貸そうか──。」
少女と共に歩む道のりは、私の胸を昂らせた。求めていたものが、手に入った。
私はまた、心を取り戻すことができた。
新たな命を、彼女がくれた。そう、思ったんだ。
だが……。すぐに、気づかされた。
そんな……どうして……。
…………私は……“そう”なのか……?
そういうこと、だったのか……。
私は、理解したのだ。
先輩、少女、そして新たな少女、また次の少女。
夢を叶え、失うたびに、私は何度も突きつけられた。己の、業を。
私は、誰かと共にいるときだけ、情熱を味わうことができる。自分の中にも炎があると思っていたのは、ただの勘違いで。あれはすべて、誰かが私に注いでくれた熱だったのだ。
私の第二の人生が、始まった。
……いや、私は最初から、生者ではなかった。
ずっと、最初からずっと。私は、誰かの生をむさぼり生きることしかできない、亡者だったんだ……。
そして私は。“天才・桂城 泉”と成り果てた。
誰かの夢を叶えるために、私はなにもかもを捧げた。それはすべて、自分のためだ。他人のためになら天才になれてしまった私は、すべての夢を叶えることができた。
永遠に夢を見続けることは、許されなかった。
そして、あの日、あの雨の校舎で、私はセラスと出会った。
セラスと出会った頃の私は、亡者としての生き方も上手になっていた。私は自分がどんなに惨めで、つまらない人間なのかをわかっていた。
他人の夢を叶えることが、今までと同じ繰り返しだとしても。やめることはできない。やめた瞬間に、私は自分が朽ち果てるのをわかっていたから。
まるで永遠の輪廻を味わうように。私は炎に焼かれながら生きるしか、道はなかったのだ。
悪魔はもはや、私自身だった。
私は新たなる契約を交わした。セラス 柳田 リリエンフェルトに手を貸し、スクールアイドルとしてラブライブ!を目指し、そして。
そして。
ただ繰り返すばかりだった私の地獄に、光が差した。
彼女は、私がこれまで救ってきた少女たちとは違った。ただのお姫様であろうとは、しなかった。
セラスは弱く、脆く、幼くて。
そして強く、気高く、眩しかった。
命の充足が、そこにはあった。
数多の困難を乗り越え、大勢の助けを借りて夢を叶えたその先に、まだ、セラスの物語は続いていた。光に向かって駆けてゆく彼女は、私の手を強く掴んで、離そうとはしなかった。
彼女の夢は、欲望は、尽きることがなかった。
セラス
「わたしの夢を叶えるあなたの夢を、叶えてあげる。」
セラス
「ただし。今度はそっちが『お姫様』だから。」
私がどんなに突き放し、諦めていても。決して挫けず、まっすぐに、希望を失うことはなかった。
セラス
「…………か、必ず! わたしが泉のこと、スクールアイドルにしてみせるから! スクールアイドルのこと、大好きにさせてみせるから! ぜったい! ぜったいに!」
セラス
「覚えておいてよ!」
セラスの目を通して見る世界は、いつでも輝いていた。ともすると、目を覆いたくなるほどに。
どんな炎よりも皓皓と燃え上がる光。
それは灰に満ちていた私の世界を、照らしてみせた。
セラス
「一緒に歌おうよ、泉。わたしの曲で、泉の歌を、一緒に。」
セラス
「“スクールアイドル桂城 泉”を、始めよう。」
彼女の目に映る私の姿は。
色づいて見えたんだ。